Dec 22, 2010

オフィス店舗の暗闇の中でビーチは、監視カメラ

暗いところでもカラーでビーチには、画期的な監視カメラが登場しました。既存の監視カメラは、夜間など、闇は黒くビーチだけでしたが、新しい監視カメラは、赤外線が出てくる部分がたくさんついていて、その反射率の違いに応じて色を区別すると呼ばれます。実際に映像を見ると、真っ暗なのに、カラーで映っているのだろうか。これなら夜間の事務所店舗を監視する強固犯罪の抑止効果も期待できます。
監視カメラは、もはやどこにインストールされています。このような現状を知らない人もいるようですね。外出時の行動は慎重に行う賢明になってくる。監視カメラが有用な場合もありますね。犯罪を未然に防ぐためにも不可欠です。最低限のルールを敷いていくことも必要になるかもしれません。
 六甲山系に位置する神戸市北区の市立森林植物園で紅葉が見頃を迎え、秋の深まりを感じさせる深紅やオレンジに染まった木々が見物客らを楽しませている。

 園内の長谷池(約0・7ヘクタール)周辺のイロハモミジやラクウショウが色づき、今年は10月下旬から気温の高い日が続いたため例年より約1週間遅く、今月下旬まで楽しめるという。

 神戸市北区の会社員、金麻美さん(29)は「池に映る赤や緑のグラデーションがきれい」と話していた。

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 ■渡司氏出馬取りやめ

 27日投開票の大阪ダブル選を盛り上げようと、大阪市内の印刷会社が企画したレトルト食品「わたしの梅田カレー」が“ピンチ”に陥っている。大阪市長選にいったん出馬表明した元共産党市議、渡司(わたし)考一氏と、同党推薦の知事選候補者、梅田章二氏の名字にかけてネーミングしたが、渡司氏が告示直前になって出馬を取りやめたためだ。

 公選法上の規定を踏まえ、もともと市販の予定はなかったものの、関係者は思わぬ余波に「これからは『マイ(わたしの)梅田カレー』ということで…」と苦笑いしている。

 同社はさまざまなカレーのパッケージの印刷を請け負っており、「わたしの…」は、渡司氏らのチラシの印刷を請け負ったことなどをきっかけに立案。製造した7500個を、1個300円で関連団体などに提供し、梅田氏の選挙事務所にも箱が飾られている。

 しゃれっ気たっぷりだった同社“渾身(こんしん)”のアイデアだったが、渡司氏の不出馬で趣を変えることに。それでも、梅田氏を支援する「明るい民主府政をつくる会」の前田博史事務局長(49)は「ネーミングの意味は変わってしまったが、印刷会社が応援してくれるのはうれしい」と話した。

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 □坂の上の雲ミュージアム館長・松原正毅さん

 ■「22歳の自分にあてた手紙」 司馬さん個人にも重要な作品。

 −−司馬遼太郎さんにとって「坂の上の雲」とはどんな作品だったのでしょう

 松原 松山出身の秋山好古(よしふる)、真之(さねゆき)兄弟、正岡子規の3人の主人公の人生を描くことが主になっているわけですが、作品にはロシア人、アメリカ人も含めて約1300人の登場人物がいます。「坂の上の雲」というのは3人を中心としながら、その背景にいる人々の人生を描くことを通じて、日本における明治国家というか、日本における近代国家制度というものがどのように構築されていったかということをよくわかるように書いている重要な作品です。

 −−すごい数の登場人物ですね

 松原 それと同時に、司馬さん個人にとって大変重要な意味を持った作品だと思います。平成3年に文化功労者として選ばれたときに、たくさんのマスコミの人たちが司馬さんをインタビューして「どうしてこんなにたくさんの作品を次から次へと書いてきたんですか」という質問をしました。司馬さんはそのとき、「22歳の私、自分あてに手紙を書いてきました」という答え方をしたんですね。

 −−作品が自分への手紙ですか

 松原 すべての作品が22歳の司馬さんへあてた手紙であったとは思わないですが。司馬さんは「22歳の自分への手紙」という短い文章を残しています。その中で、司馬さんは8月7日が誕生日なんですが、昭和20年の8月7日の誕生日は当然祝わなかった。そのときにどうして明治や大正の人たちが愚かな戦争ばかりしてきたのかという疑問がわき、当時22歳だった司馬さんを捉えた。そのとき答えは出せなかったが、それから20年たった昭和40年前後から「私は22歳の自分にあてて手紙を書き始めました」と書いている。これがまさに「坂の上の雲」そのものだと思うのです。それは20年間という長い年月、司馬さんは考えに考え詰めて、一つの答えとしてあの「坂の上の雲」を書こうと決意した、そういう作品だと思います。

 −−「坂の上の雲」の中に22歳の司馬さんへあてた手紙はいくつかありますか

 松原 たとえば、単行本の第2巻のあとがきの最後の方に日露戦争はロシアが自ら負けたところが多く、日本はかろうじて勝利を拾ったのだ。ところが日露戦争後の日本政府も国民も日露戦争を冷厳な相対関係として捉えようとだれもしなかった。要するに冷静に日本の位置とか、ロシアの位置とかきちんと分析して、日露戦争そのものがどういう性格の戦争だったのか分析して、批判ないし、評価を一切しなかったとしています。

 そのためいたずらに軍隊を神格化して、結果的にいえば日本は狂躁(きょうそう)の昭和期を迎えてしまって太平洋戦争に突入して負けた。それがわずか日露戦争から40年のことだったとしている。思いの一つとして明治国家をつくる過程で国益をめぐって起こった戦争だったが、戦争を冷静に位置づけようとしなかったことが間違いのもと。その後の軌道が狂っていくもとだと、それを司馬さんは22歳の自分への回答として書いたんだと思います。(聞き手 塩山敏之)

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